蒼が起きたのは昼だったらしい。
他の子たちは済ませたからと、蒼にだけ別の昼餉が用意された。
広い和室の一角に洋風なテーブルが置かれていた。
「最近の現世の子はテーブルの方が楽みたいだから、揃えたんだ。正座とか慣れてないみたいだから。蒼もテーブルの方が楽? 畳の方が良ければ、座って膳でもいいよ」
食事する場所を選ぶなんて経験は、今までにない。
与えられた環境で、何より食えれば何でもよかった。
「テーブルで、大丈夫です」
目の前に並んだ豪華な食事に、蒼は唖然とした。
天ぷらや刺身、煮つけなど、食べきれないほどの量だ。
「とりあえず和食にしたけど、蒼は好物とかある? 栄養が偏らない程度になら、好きな食べ物を出すから、教えてね」
膳を前に呆然とする蒼を眺めて、紅が笑った。
「理研からくる子たちは、大体みんな、最初はそういう反応するんだよね。量が多すぎるとかだったら減らすけど、蒼も育ち盛りだから、それくらいは食べられるよね」
膳を眺め、紅の話を聞いて、ひらめいた。
(僕たちは餌だから、肥え太らせた方が美味いのか。魂とか霊元も食った方が育つのかな)
何となく納得して、箸を持ち、手を合わせた。
「い、いただきます」
「召し上がれ」
紅が蒼を眺めているのが居心地が悪いが、とりあえず天ぷらに箸を伸ばした。
箸で持って重いと感じるようなエビの天ぷらなんか、人生で初めて出会った。
天つゆに浸して、ぱくりと頬張る。
噛むたびにぷりぷりした触感が歯を押し返してきて、驚いた。
蒼の顔を眺める紅が、満足そうに笑んだ。
「美味しい?」
何度も頷いて、蒼は膳にがっついた。
エビを一口、食べて以降は箸が止まらず、気が付いたら全部平らげていた。
「ごちそうさまでした……」
あまりの美味しさに食べ終わった後も感動が収まらない。
「足りなかったかな。もう一人分くらい食べられそうだね」
蒼は、ブルブルと首を振った。
「そんな贅沢、覚えたら……。前の暮らしに戻れなくなる」
理研では栄養失調にならないギリギリの食事しか与えられていなかった。
金もほとんど持っていなかったから、買い食いの経験もない。
「もう戻らないから、いいんだよ。蒼は一生、俺と一緒に暮らすんだから。この程度、贅沢じゃないよ。遠慮しないで食べたいモノ、教えてよ」
はっと気が付いて、胸に広がった感動が、さぁっと冷めた。
(そっ、か……。一生、か。僕は遠くない未来に紅様に喰われるんだから、ここが終の棲家なんだ)
さっきの紅の話なら一月前後だろうが、蒼はもう少し長いと言われた。
(長いと言っても年単位じゃないだろうし、残り少ない人生で良い思いさせてあげよう的な感じかな)
恐らくこの妖怪は、そう悪者でもなのだろう。
可哀想な子供たちを引き取って最期に良い思いをさせて、喰う。
(そういう昔話、なかったっけ? まさか現実にあるとは思わなかった。どうせ喰われて死ぬんなら、少しくらい我儘、言ってみてもいいかな)
ちらりと顔を上げる。
紅が笑んだまま首を傾げた。
「牛肉、食べたこと、なくて。ステーキ、とか、食べてみたい、です」
リクエストもおねだりもしたことがないので、どういう言い回しが正しいのか、わからない。
恥ずかしくて、顔が熱い。落ち着かなくて、ソワソワする。
「いいよ。じゃぁ、夕飯はお肉にしようか。芯もニコもお肉好きだから、きっと喜ぶよ」
あっさり許可が出て、驚いてしまった。
驚き過ぎて心臓がバクバクしている。
「他には何かある? 食事だけじゃなくていいよ。服は俺に合わせて皆、着物で来てくれるけど、窮屈なら洋服も用意するよ。あとは、部屋も一人一部屋で準備できるんだけど、理研の子たちは何故か同じ部屋を希望するんだよね。蒼は、どうしたい?」
胸の奥がくすぐったくて、ソワソワした。
「どうしたい?」なんて、今まで聞かれたことがなかったから。
からくり人形のように命令に従って生きてきた蒼には、ハードルが高すぎる。
人生初のステーキおねだりなんかしてしまったばかりで、他の何かを要求できるメンタルはない。
「着物を着ます。同じ部屋でいいです」
ぽそりと呟いた蒼に、紅が頷いた。
「うん、わかった。要望が出てきたら、教えてくれたらいいよ。実際に生活してみないと、わからないだろうからね」
蒼は、そっと顔をあげた。
「紅様は、なんで、そんなに……親切、なんですか? 僕らは、餌でしょ? そこまでしなくても、理研の子供は逃げたり、しません。そうした方が、美味しくなるんですか?」
正直、牢に監禁でもしておいた方が楽なんじゃないかと思う。
紅が眉を下げて笑んだ。
「君たちが、可愛いから。確かに俺は最終的に君らを食べるけど、可愛いとも思ってるんだ。愛玩だと思えばいいよ。俺が好きでやってるだけだよ」
その言葉は本音であって本音でない。そんな気がした。
「他の子と差を付けたくはないけど、蒼には俺を好きになってほしいから、余計に構うかもしれないかな」
蒼の髪を指にくるりと巻きつけながら、紅が笑う。
「どうして、ですか?」
紅が笑んだまま困った顔をした。
「俺は君らを喰うために、俺の一部を君らに流し込む。俺の一部になり始めると、体の一部が変化し始める。それと同時に、俺を好きで堪らなくなる」
蒼は昨日の自分を思い返した。
紅とキスして精液を飲んでから、愛しい気持ちが込み上げた。
「それが俺の妖術で、必要だからするんだけど。蒼には妖術じゃなく、俺を好きになってほしいよ」
紅が蒼の頬を、するりと撫でた。
(命じてくれたら、そうする。妖術で操ってくれた方が、楽だ。けど、紅様は僕に本心から好きになってほしいんだ。どうしてなんだろう。僕は、ただの餌なのに)
今更、逃げる気もない蒼にとって、紅の命令に逆らう気もない。
理研より紅の元にいた方が、ずっと良い生活ができる。
蒼は紅の手を、そっと握った。
「紅様を好きになれるように、努力します。この命は紅様のモノですから」
紅がそう願うなら、それが命令だ。
喰われるまでの間、可愛がってくれるなら、その気持ちには報いるべきだろう。
出来れば喰う時は、痛くも苦しくもなく楽に喰いつくしてほしい。
その願いはまた後日、伝えてみようと思った。
紅が、少しだけ目を見開いた。
「そっか。蒼は、からくり人形なんだね。理研から来る子には、時々そういう子がいるけど、そうか。そこから直していかないと、いけないね」
紅が困った笑みを浮かべている。
その意味が、蒼にはわからなかった。
蒼が起きたのは昼だったらしい。 他の子たちは済ませたからと、蒼にだけ別の昼餉が用意された。 広い和室の一角に洋風なテーブルが置かれていた。「最近の現世の子はテーブルの方が楽みたいだから、揃えたんだ。正座とか慣れてないみたいだから。蒼もテーブルの方が楽? 畳の方が良ければ、座って膳でもいいよ」 食事する場所を選ぶなんて経験は、今までにない。 与えられた環境で、何より食えれば何でもよかった。「テーブルで、大丈夫です」 目の前に並んだ豪華な食事に、蒼は唖然とした。 天ぷらや刺身、煮つけなど、食べきれないほどの量だ。「とりあえず和食にしたけど、蒼は好物とかある? 栄養が偏らない程度になら、好きな食べ物を出すから、教えてね」 膳を前に呆然とする蒼を眺めて、紅が笑った。「理研からくる子たちは、大体みんな、最初はそういう反応するんだよね。量が多すぎるとかだったら減らすけど、蒼も育ち盛りだから、それくらいは食べられるよね」 膳を眺め、紅の話を聞いて、ひらめいた。(僕たちは餌だから、肥え太らせた方が美味いのか。魂とか霊元も食った方が育つのかな) 何となく納得して、箸を持ち、手を合わせた。「い、いただきます」「召し上がれ」 紅が蒼を眺めているのが居心地が悪いが、とりあえず天ぷらに箸を伸ばした。 箸で持って重いと感じるようなエビの天ぷらなんか、人生で初めて出会った。 天つゆに浸して、ぱくりと頬張る。 噛むたびにぷりぷりした触感が歯を押し返してきて、驚いた。 蒼の顔を
目が覚めたら、知らない天井が広がっていた。 ふかふかの敷布団の上で、温かすぎて汗をかきそうな羽毛布団がかかっている。(そっか、売られたんだっけ。その割に、やけに良い布団で寝ている) 和風の家屋の畳に敷かれた布団は、厚みがあり過ぎて体が沈む。 慣れない感覚に戸惑いながら、障子戸を開けた。 綺麗に晴れた空の下に、広い庭が広がる。 その中に、昨日の男がいた。(人間を喰っていた、僕を買った妖怪だ。|紅《くれない》、だっけ) 縁側に立つと、男が気付いてこちらを見た。「おはよう、|蒼《あお》。昨日は眠れた?」(蒼……、そういえば、僕の名前だ) 昨日、紅という妖怪がくれた名前。 名前というものを初めてもらった。(自分を喰う妖怪がくれた名前でも、嬉しいものなんだな) それが自分を、自分だけを表す言葉なんだと思ったら、ちょっとだけ嬉しかった。 縁側から庭に降りて、紅に歩み寄った。「立派なお布団、ありがとうございました」 ぺこりと頭を下げる。 その頭を紅の大きな手が撫でた。(大きな手だけど、優しい。温かいな。そういえば昨日も、触れた手は酷く優しかった) あまりの優しさに、かえって驚いてしまった。「お礼は要らないよ。ここはもう、蒼の家だ。好きに過ごしていいんだよ。必要なものは揃えるから、欲しいものがあったら教えてね」 よくわからない話をされて、理解に苦しむ。「あの、僕は、貴方の食料として売られたと聞いてるんですが」「うん、そうだよ」 あまりにも普通に返事をされて、自分の言葉を後悔した。「昨日も見ただろ。俺が|色《いろ》を喰うところ。あれが俺の食事。俺の妖力をちょっとずつ流し込みながら、しばらくは生気だけ吸うの。俺の妖力が体内に増えるとね、人間の方から俺と同化したくなるから、そうなったら喰うんだ」 紅が、シャボン玉を吹きながら説明してくれた。 あまりに普通に話されて、どう返事をしたらいいか、わからない。(けど、色って子は痛そうでも辛そうでも、無かったよな) むしろあの顔は、気持ち良さそうに見えた。 だったら、怖くはないのかもしれない。「そうなるまで、大体、一月くらい。だけど、蒼は、ちょっと違うかな」 紅の手が蒼の顎を撫でた。「俺はね、本当は人の魂より、霊力の方が好きなんだ。霊元を持つ人間は霊力を量産できるし、すぐに喰い
国立理化学研究所。 日本でも最先端の科学実験が行われている、世界にも通用する研究機関だ。 だが、その一部では秘密裏に、非合法な実験が行われている。 少子化対策室と銘打った研究室では、非合法に体をいじられた被験体が日々、産まれている。 生殖能に特化した人間を生み出す傍らで行われているのは、霊元移植や霊能開発だ。 つまりはオカルトな能力を持った人間を作り出そうとしている訳だ。 なんとも馬鹿らしい話だと思うが、実際に霊能を持った人間は生まれている。 その子供たちは|masterpiece《最高傑作》と呼ばれて特別扱いされている。 それ以外の子供は|blunder《失敗作》、|bug《ガラクタ》と分類される。 №28は最初、bugだった。 生殖能と共に霊能開発を進めているせいなのか、子供たちの霊能は性徴とともに変化する。第一次性徴で霊元が現れない子供は、ほとんどがblunderかbugだ。 霊元とは、霊力を生み出す人間の第二の魂のようなものらしい。 それがない時点で、理研にとってその子供はガラクタでしかない。 bugに分類された子供たちの末路は悲惨だ。 呪術の実験体、呪具の材料、|幽世《かくりよ》への売買。 名前どころか戸籍すらもらえない子供の命など、その辺の埃より軽いんだろう。 第二次性徴に合わせて、№28には再び実験が施された。 人工的に霊元を移植する実験だ。 一応、成功したらしい。だが、理研が期待したような成果ではなかったようだ。 霊元は根付いたが、霊力が多いだけで、使いこなせない。 何の術も使えない№28はblunderに分類された。 blunderなら名前と戸籍を貰えて、一般社会に出られる可能性がある。 少しは期待した。 だが、結局は幽世に売られた。『ウチの昔からの御得意様が、霊力の多い人間が欲しいらしい。お前は霊力が多いだけで何もできないんだから、お誂え向きだ。幽世で幸せにでもなるといい』 霊能開発室を奨めている所長の安倍千晴は、幽世との売買の中心人物でもある。 幽世に売られる人間は食料にされる。 そんなのは、理研の子供らにとって共通認識だった。(結局、喰われるのか) しかし、それでもいい気がした。 このまま理研にいても、殺される未来しかない。 足抜けを計った仲間は、ことごとく掴まってどこかに売ら
目の前に男が座っていた。 多分、男なんだろうと思う。只、人間ではない。 白い狐の面を顔の半分に被った男は、長い白髪で、白い着物を纏っていた。 男の後ろに少年が二人、座っている。 少年というには大人びた、かといって青年と呼べるほどの年齢でもなさそうに見えた。 男に抱き付く一人の少年を撫でながら、こっちに視線を向けた。 面のせいで正確な目線は解らないが、こっちを見ている気がする。「……名前は?」 短い問いかけに、首を捻った。 №28 理化学研究所では、そう呼ばれていた。 それ以外の呼称は、ない。「二十八、です」 仕方がないので、そう答えた。 男が小さく息を吐いた。「それは名ではないだろう。理研からくる子供らは皆、名を持たないね。君もか」 知っているなら、聞かないでほしい。 もう何度も理化学研究所から人間を買っている《《御得意様》》らしいから、ある程度の事情なら知っていそうだが。 男が顎を摩りながら、とっくりとこちらを眺める。 観察している感じだ。「こっちに、おいで」 手招きされて、前に出た。 人、一人分くらい空けて、前に立った。「もっと近くだよ。俺が触れられるくらい、近くにおいで」 更に手招きされて、移動に悩んだ。 男に抱き付いている少年が足を投げ出している。 そのせいで、これ以上、近づけない。「紅《くれない》様ぁ、色《いろ》、もう眠いよ」 首に腕を回して抱き付いていた少年が、ウトウトしながら目を擦る。 年の頃、十二、三歳といった程度の少年だ。この子も、只の人間の気配とは違って感じた。 よく見ると頭に大きな耳が付いている。尻には尻尾らしきものもある。(髪の毛かと思ってたけど、違った。あの子も妖怪かな。てっきり、先に買われた理研の子供かと思ってた) 後ろに控えている少年も、同じくらいの歳頃に見えるが、やはり同じように耳がある。「紅様と早く一つになりたい。紅様と同じになりたい。いつもみたいに温かいの、欲しい」 少年が、男の胸に顔を押し付ける。 紅と呼ばれた男が、困った顔をした。「色はもう、溶けてしまう時期だけど、いいの?」「ぅん、溶けたいの」 嬉しそうに頷く色という少年を、紅が眺める。 その表情が、どこか悲しく映った。「わかったよ。じゃぁ、沢山流し込んで、温かくしようか」 紅が面を外した